真田丸ゆかりの地【海津城】上杉との最前線を守った高坂昌信



 
千曲川を背後に控える海津城は
武田家築城の特徴とされる
甲州流築城術を強く用いられた
武田家を代表する平城です。

江戸時代に入ると
1622年に真田信之が入り
以降長く真田家が所有し
後に松代城と名前を改めました。
 

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海津城の歴史

記録では、海津城の築城は
1559年に開始されたと
残っているものもありますが
正確な築城時期は
定かではないようです。

 

武田信玄が信濃侵攻にあたり
対立する上杉家への
対抗拠点を兼ねて
築城の命を出しました。

 

築城にあたったのは
武田家の名軍師で
この当時は、足軽大将を務めていた
山本勘助です。

 

海津城は上杉家に対しての
最前線にある重要な拠点
ということもあり
城代には、武田家四天王の一人
高坂弾正昌信が入ります。

 

武田家が滅びた後は
織田家が所有し
森長可が城主となりますが
本能寺の変が起こると
長可は信濃退却を決め
海津城を無人のまま残し
美濃へと退いていきます。

 

ガラ空きとなった信濃には
上杉家が侵入し、海津城も
上杉家の支配下となります。

 

その後、上杉が会津移封となると
秀吉が田丸昌直を城主に指名
その後は、森家→松平家→酒井家を経て
真田家の所有となります。

逃げ弾正・高坂昌信

武田家四天王の一人、高坂昌信は
信玄と勝頼の二代に渡って
武田家に仕えました。

 

実名を
春日虎綱と言います。

 

16歳の時
信玄に召し抱えられると
数々の戦に参戦し
頭角を現していきます。

 

また、信玄に
大変気に入られており
とても可愛がられていました。

 

官途である弾正忠から
よく高坂弾正と呼ばれています。

 

ところで武田家には
弾正忠が三人いて、高坂の他には
真田幸隆と保科正俊です。

 

二人とも武勇名高い名将ですので
聞いたことがある名前だと思います。


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というか、真田幸隆は
昌幸のお父さんですね。

 

幸隆は、攻め弾正
保科は、槍弾正
高坂は、逃げ弾正
と呼ばれていました。

 

逃げと言えば、臆病者という
イメージが現代ではありますが
当時の逃げというのは
戦況を見極めて深入りせずに
引き際を見逃さないという意味で
有能とされていました。

 

戦では、重要性の高い役も
多く務めていた
優秀な武将でした。

現代の海津城を見る<

海津城、後の松代城跡は
長野市松代町に位置します。

 

松代城跡の地図

 

江戸時代に真田家が
10万石で所領としましたが
明治時代に廃城となり
しばらくは
石垣が残るのみとなっていました。

 

昭和56年に国史跡に指定されると
平成に入ってから
太鼓門や北不明門などが
復元されました。

 

本丸跡の石垣からは
妻女山が見えます。

 

この山は、上杉謙信が合戦時に
陣を張ったところです。

 

松代城跡は、現在
真田宝物館となっていて
真田家に関する資料が
たくさん保管されています。

 

長野駅から松代までの間には
八幡原史跡公園があり
ここは、川中島の合戦地と
言われる場所です。

 

信玄と謙信の一騎打ちの像や
首塚があり、当時の面影を
感じられる場所です。

 

ぜひ一度訪れてみたいですね。

最後まで読んで下さり誠にありがとうございます。

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