真田丸ゆかりの合戦【川中島の戦い】信玄・謙信両雄一騎討ち


 
「越後の龍」「甲斐の虎」

戦国時代の英傑の中でも
もっとも有名なライバル関係が
上杉謙信と武田信玄です。

両雄が激突した川中島の戦い
みなさん一度は
耳にしたことがあると思います。

計五回もの戦いに及んだ
この戦いをみていきましょう。
 

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川中島合戦の発端

川中島の戦いは、12年の間に
計五回行われました。

 

ただ、本格的な合戦と呼べるのは
1561年の第四次合戦だけ
と言われ、残りの四回は
睨み合いや小競り合い程度でした。

 

戦いのきっかけは、武田信玄による
信濃制圧計画です。

 

内陸甲斐を領土とする信玄は
日本海を手に入れたかった
そのため信濃がほしかったのです。

 

信濃に兵を進めてきた信玄
これにより、村上義清や
小笠原長時といった
信濃の国人達が上杉謙信を頼って
越後に逃れてきました。

 

謙信にとっても、北信濃は
越後に隣接している都合上
信玄の手に渡れば
越後にも危険が及ぶ可能性があるため
見過ごすわけにはいきません。

 

こうして両雄は
睨みあうこととなり
ついに川中島で
一発触発の構えとなるのです。

決戦・第四次川中島の戦い

第一次布施の戦い、第二次犀川の戦い
第三次上野原の戦いは、それぞれ
睨み合いや小競り合いの規模でした。

 

しかし1561年8月、ついに
謙信が動きます。

 

1万8千人の大軍勢を率いて
春日山城を出陣しました。

 

当時武田家の最前線である
海津城にいたのは
四天王の一人、高坂昌信。


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上杉の動きを察知した高坂
はすぐに信玄に知らせます。

 

信玄もすぐに
1万6千人の軍勢を引き連れ
甲府を出発します。

 

妻女山に本陣を置く上杉陣と
茶臼山に布陣した武田陣は
千曲川を挟んで睨みあいます。

 

まずは信玄、本体と別働隊を分け
別働隊を妻女山の裏手から攻めさせ
本体との挟み撃ち
「啄木鳥の兵法」
仕掛けようとします。

 

しかし、これを見抜いていた謙信は
武田の別働隊が来る前に
全軍で山を降り、数の少なくなった
武田本体へ正面衝突を仕掛けます。

 

八幡原の戦いです。

 

八幡原史跡公園の地図

 

両軍入り乱れる中で
謙信と信玄の
一騎討ちがあった…
とされるのもこの時です。

川中島の結末と武田家の損失

「車懸ちの陣」対「鶴翼の陣」
ともいわれたこの戦い。

 

両軍熾烈な戦いを繰り広げ
両当主の一騎討ちまで飛び出します。

 

ただこの一騎討ちは
後年の創作という見解が強く
実際あったかは定かではありませんが
謙信が信玄の本陣近くまで
攻め寄ったのは事実のようです。

 

勢いと数に勝る
上杉軍有利の展開で戦は進みますが
妻女山からの武田別働隊が
戦場に到着すると戦況が変わり
今度は武田優勢となります。

 

攻め込んでいた上杉勢ですが
フレッシュな別働隊の勢いに
今度は逆に上杉勢が押し返され
やむなく撤退します。

 

こうして結局、この第四次合戦も
引き分けに終わり、続く第五次合戦では
謙信・信玄ともに出陣はするものの、
戦わず撤退し、決着がつかないまま
この合戦は終了します。

 

この戦い、両軍引き分け
という結果とはなりましたが
武田家はかなりの
痛手を負いました。

 

信玄の弟・信繁
重臣の諸角虎定、さらには
武田家の頭脳である
名軍師・山本勘助も
この戦いで討ち死にしました。

 

そういう意味では
武田軍の方が失ったものが大きく
無念な戦だったのではないでしょうか。

最後まで読んで下さり誠にありがとうございます。

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