真田丸ゆかりの戦い【長篠の戦い】火を噴いた織田軍の三段撃ち


 
長篠の戦いは、長篠城をめぐり
織田・徳川の連合軍と
武田軍が合いまみえた大合戦です。

1575年5月、設楽原で
繰り広げられたこの合戦は
これまでの合戦の様相を変え
鉄砲の威力が雌雄を決します。

信玄没後、三河へと
食指を伸ばした勝頼に
信長と家康、そして
鉄砲が火を噴きました。
 

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武田勝頼の進撃

武田信玄の死後
家督を継いだ武田勝頼は
信玄の遺志を継ぐべく
領地拡大に走ります。

 

遠江を攻略した勝頼は、さらに
その勢力を三河へ広げようとします。

 

この時の武田軍は
とにかく勢いに乗っていて
次々と城を落とします。

 

武田勝頼というと
武田家滅亡時の当主として
その力量には
賛否が問われることもありますが
優秀な武将だったと私は思います。

 

文武に優れ、実際
この遠江・三河侵攻の際には
父・信玄でも落とせず
難攻不落と呼ばれた
高天神城も落として見せました。

勝頼自体は、非常に優秀な武将
だったと思いますが、なんせ
織田信長が強すぎたんだと思います。

 

さて話を戻して
この武田軍の勢いに
織田も黙ってはいません。

 

当時信長は、畿内の平定に
忙しい身でしたが、武田軍は
徳川家康の居城・浜松城付近まで
手を伸ばしていました。

 

このままでは三河も危ない
そう察した信長は
武田撃退に赴くことになりました。

長篠城をめぐって

高天神城を落した勝頼は
次に長篠城に焦点をおきます。

 

長篠城は
徳川家の持ち城です。

 

遠江・三河を領する家康ですが
信玄の時代に山間部を
武田家におさえられていました。


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長篠城はわずかに奪還できた
城のうちの一つです。

 

家康としてみれば、領地回復のため
長篠城は重要な城だったんでは
ないでしょうか?

 

一方、勝頼にしてみれば
三河侵攻にために
長篠城は目の上のたんこぶ的な存在。

 

そこで、この城を
攻略する必要がありました。

 

家康としては、今の武田家に
自軍だけで対抗する力があるか
不安が大きかったと思います。

 

信長の援軍を
心待ちにしていました。

 

そのころ信長は、総勢3万の
大軍勢を率いて岐阜を後にします。

 

信長の意気込みが感じられます。

 

この時、織田勢は
大量の鉄砲
用意していたのです。

長篠の戦い決着・鉄砲三段

長篠城を包囲していた武田軍。

 

10日ほど過ぎたころ
織田・徳川勢が
現地に近付いてきていることが
勝頼の耳にも伝わります。

 

決戦か、一旦退くか
決断に迫られていた勝頼ですが
織田・徳川軍は
設楽原まで進んでくると
そこで歩を止めます。

 

この状況に、信長は
武田の勢いと力に弱気になっている
との噂が流れました。

 

そこで勝頼は、後詰めが来る前に
弱気な織田軍を叩こうと判断し
設楽原に向けて動きます。

 

設楽が原決戦場の地図

 

信長の策略に勝頼がまんまと
はまったと言われています。

 

信長が設楽原で足を止めていたのは
武田軍を殲滅するための
準備を行っていたから。

 

馬防柵や空堀、土塁などで
戦い場を築きました。

 

鉄砲三段撃ちのためのです。

 

武田軍が設楽原に到着し
合戦がはじまります。

 

最強と謳われた武田騎馬勢が
織田軍に向かって猛攻を仕掛けます。

 

しかし織田勢は
馬防柵に整列した足軽たちが
一斉に武田軍へ向かって
鉄砲を撃ち込みます。

 

鉄砲は一発撃つと、次の弾を込めるのに
時間を要するため、これまでの戦では
使い勝手が良くないされていました。

 

この戦で織田勢がとったとされる
三段撃ちは、撃つ人間を固定して
残りの人間で鉄砲の整備や
弾薬の装着を行い、間髪いれず
鉄砲を撃ち込むという戦法。

 

実際、これが長篠の戦いで
行われたか明確ではないですが
織田の鉄砲戦法
強力な力を発揮したことは事実です。

 

予想以上の大勝利をおさめた信長
武田家はこれより
滅亡への道を進むことになります。

最後まで読んで下さり誠にありがとうございます。

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