真田丸ゆかりの地【大坂の陣】徳川家康を追い詰めた六文銭



 
真田氏は戦上手で知られますが
中でも真田信繁(幸村)の名を
一躍世に知らしめたのが
大坂冬の陣と、大坂夏の陣
二つの合戦です。

豊臣氏の存亡をかけた
この二つの戦で真田信繁は
大きな武勲を挙げ
徳川家康を追い詰め

あわや…

と言うところまで迫ったのです。
 

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大坂冬の陣

慶長19年(1614年)
豊臣家が再建した
方広寺に納められた鐘に
『国家安康』の名が
入っていたことから

徳川家康は
自分の名を割る不吉な行為だと
豊臣家を糾弾し
その後の和睦交渉もむなしく
豊臣家と徳川家が
争う事になりました。

 

徳川方が大坂城を包囲し
同12月3日、4日に合戦となった舞台に
真田丸と言う
砦があったのです。

 

これは大坂城から飛び出す
出城のように作られた砦で

周辺から突出しているために
攻めやすいように見えながら
実際は堅牢な防御力を誇り

敵兵が内部に入り込むと
一斉に銃と矢の集中砲火が
可能な構造になっていたのです。

 

徳川方は真田丸攻略前に
真田丸の前にあった篠山を
制圧しようと動きましたが

攻めてみるともぬけの殻で
あっけにとられる徳川軍を
真田軍がもてあそび
真田丸に誘い込むことに成功しました。

 

真田丸を責めた前田勢は
多大な被害をこうむり
退却する羽目になります。

 

以後、徳川家は大砲を使った
攻城戦へと戦略を
切り替えていくのです。

大坂夏の陣

慶長20年(1615年)
講和の条件として
堀を埋めた大坂城
再び徳川軍が迫ってきます。

 

堀が埋められた状態での攻城戦は
不利と見た豊臣方は
全軍を場外に配置し、野戦で
徳川家康を討つ戦略を取ります。

 

豊臣方は徳川軍を足止めするため
様々な策略を練りますが
同5月6日には
大坂城のお膝元である
堺で合戦が始まります。

 

そして、両軍の趨勢を決めたのが
天王寺・岡山の戦い
と言われています。


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戦略としては
豊臣方が、敵を出入り口の狭い
四天王寺に引きつけて叩きつつ
敵の本陣が手薄になったところで
別動隊が徳川本陣を
挟み撃ちにすると言うものでした。

 

その戦略の要となったのが
真田信繁(幸村)です。

 

しかし、この連携は
味方の足並みが揃わず失敗
真田軍は味方がいない状態で
徳川本陣に突撃することになります。

 

それでも信繁は
徳川本陣の間近に迫り
本陣を大混乱に陥れただけでなく
家康の馬印に
あと一歩のところまで
追い詰めます。

 

ですが、家康は
本陣から逃げる事に成功し
圧倒的な数の差から
真田軍を含めた豊臣方は
敗北の道を辿っていくのです。

大坂(大阪)城の歴史

大坂城は、慶長20年(1615年)
大坂夏の陣で豊臣氏滅亡と共に
消失しています。

 

※大阪城の公式HPを
参考にして下さい。

大坂城天守閣

 

その後大坂城は、再建と火災を
繰り返す事になります。

 

1660年(万治3年)は
火薬庫に落雷があり
多くの死傷者を出します。

 

1665年(寛文5年)にも
落雷で天守が焼失するなど
波乱の運命をたどります。

 

江戸末期に鳥羽伏見の戦いで
旧幕府軍が敗れ
徳川慶喜が江戸へ退却した前後にも
戦の影響で焼失しており

その後、明治から
太平洋戦争中にかけては
軍の工廠(こうしょう)として
使われていました。

 

現在の天守閣の再建が決まったのは
昭和天皇の即位記念事業としてで
1931年(昭和6年)
完成しています。

 

太平洋戦争中も
同じ敷地にある軍の施設や
多くの櫓などが破壊されましたが
天守閣の損壊は免れ
損傷を修復しながら
現在に至るのです。

最後まで読んで下さり誠にありがとうございます。

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