真田丸ゆかりの地【新府城】の歴史と場所を探ってみよう!



 
甲斐武田家最後の当主となった
武田勝頼が築いた新府城。

甲府盆地西部の塩川と釜無川が
侵食して生まれた台地上に
建設されましたが
完成を見る前に
織田、徳川連合軍の侵攻を受け
放棄されました。

勝頼の父、武田信玄以来の
甲州流築城術を生かした
名城と呼ぶ声もあります。

連合軍の侵攻前に完成していれば
武田家の滅亡は
避けられたかもしれません。
 

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新府城の歴史

戦国最強とも言われた信玄の時代
武田家の本拠は、甲斐の
躑躅ヶ崎館
置かれていました。

 

当時の城は防備の強化を優先し
多くの城は、山の上に
築かれていましたが

躑躅ヶ崎館は平地に築かれ
城というよりは政庁という感じの
建物でした。

 

「人は城、人は石垣、人は堀
情けは味方、仇は敵なり」

 

の名言を残した信玄らしく
家臣団を一致団結させ
本拠に攻め込まれないように
務めることを重視したのでしょう。

 

新府城の名が
初めて古文書に登場するのは
1581年で、武田家が滅亡する
1年前です。

 

勝頼が真田昌幸に
築城を命じました。

 

信玄の死後、勝頼は同盟国の
北条氏との関係を悪くする一方
織田、徳川連合軍相手に
無理な攻勢を続け
家臣の心が離れていきます。

 

長篠の合戦で大敗して
有力武将の多くを失ったことから
防備の堅い本拠地を築こうと
新府城築城を命じました。

新府城の場所

新府城は、現在の
山梨県韮崎市中田町にある
七里岩台地に築かれた平山城です。

 

西側は崖、東側を
塩川が流れる要害の地で
本曲輪、二の曲輪
東西に1つずつある三の曲輪
帯曲輪などから成り

甲州流築城術の特徴とされる
三日月掘、丸馬出しを備えていました。

 

石垣は用いず、土塁で防備を
固めていたとされています。

 

台地の突端で戦闘が発生するよう
縄張りし、正面から迫る敵の圧力を
側方へ逃がす構造になっていました。


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織田、徳川の大軍に囲まれても
持ちこたえられるよう
真田昌幸がさまざまな工夫を
施していたようです。

 

しかし、城の完成を待たずに
織田、徳川連合軍の侵攻を受け
勝頼は城を放棄して
同じ甲斐の岩殿城へ向かいます。

 

そこで岩殿城の小山田信茂が
謀反を起こして入城できず
天目山で自害しました。

交通アクセス

新府城の最寄り駅は
JR中央本線の新府駅。

 

新府城跡の地図

 

駅から城跡までは
歩いて約20分。

 

マイカーなら中央自動車道の
韮崎インターチェンジから
5.6km。

 

約20台分の駐車場が
整備されています。

 

長い石段を登るか、馬場道を回って
中心部へ向かいます。

 

登山口から途中にある
稲荷神社の鳥居をくぐると
近道になります。

 

そのまま進むと
堀の近くに桜が植えられ
春はピンクの絶景が見えます。

 

江戸時代の城をイメージしていると
ただの山にしか見えませんが
ところどころに案内板が整備され
迷わず登ることができます。

 

新府城の規模は
戦国時代の有力大名の本拠とあって
かなり大規模。

 

実際には、ほとんど利用されずに
廃城となりましたが
空堀や土塁が今も残り
戦国時代の面影を偲ばせます。

最後まで読んで下さり誠にありがとうございます。

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