大河ドラマ 西郷どん【私学校跡と西郷洞窟】西南戦争の原因は!?



 
日本国内で起きた最後の内乱・西南戦争は
西郷隆盛が指導したとされています。

明治時代になっても、しばしば不平士族の反乱が起きていました。

中でも最大規模だったのが西南戦争で
熊本、大分、宮崎、鹿児島が戦地となり
鹿児島は戦いの最後の舞台となった地です。

そのため、戦いのつめ跡が残る場所も数多く残っています。

ここでは、隆盛が創設した私学校と
隆盛が最期を迎えるまで過ごした西郷洞窟について調べてみました。
 

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私学校を創設が西南戦争の原因を作った!?

隆盛は、明治6年(1873年)征韓論に破れ下野
薩摩に戻って来ます。

 

隆盛が薩摩に戻ったことがきっかけとなり
新政府に不満を持つ士族たちが薩摩に集まります。

そのまま放置しておくと、暴動が起きかねないと思った隆盛は
若者の教育、統率を目的に鹿児島城の旧厩跡に私学校を創設しました。

 

 私学校跡について

 

しかし、それが逆に西南戦争の原因を作ってしまったのです。

 

隆盛の意に反して、弾薬掠奪事件を起こし
鹿児島は西南戦争へと向います。

 

また、新政府が隆盛を暗殺しようとしていることが発覚
さすがに隆盛も戦う道を選んでしまいました。
(誤解だったという説もあります)

 

戦いで薩摩側は健闘しますが
数、武力に勝る新政府軍に追い詰められてしまいます。

 

最後の戦地となったのが鹿児島市内を望む城山です。

 

熊本城、田原坂の戦いに敗れ、鹿児島に戻った薩摩軍は
城山の山頂に陣を設けますが、新政府軍に包囲されてしまいます。

隆盛たちは城山を下り、岩崎谷にある洞窟に身を潜め
自刃するまでの5日間を過ごしました。

最後の5日間を過ごした西郷洞窟

西南戦争の激戦地だった私学校跡は
現在、鹿児島医療センターの敷地内にあります。


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私学校跡の石碑が立ち、昭和43年(1968年)
県の史跡に指定されました。

 

石塀には当時の銃弾跡が今も多数残っており
激しい激闘を物語っています。

また、隆盛が最後の5日間を過ごした洞窟は西郷洞窟と呼ばれ
昭和49年(1974年)、鹿児島市の記念物(史跡)に指定されています。

 

 西郷洞窟について

 

現在、隆盛の銅像が建てられ観光スポットとなっており
訪れる観光客も多いようです。

 

洞窟の横に説明文があり、隆盛は新政府軍の銃弾を受け
別府伸介の介錯で49歳の生涯を終えたと書かれています。

9月23日に隆盛たちは、この地で最後の宴が開かれたそうです。

 

隆盛たちが死を前にしてどんな気持ちだったのか
今となっては知る由もありません。

 

2018年の大河ドラマ「西郷どん」が始まってもいないのに
最終話のこと考えるのも早いような気がします。

 

ただ、ラストシーンに思いを馳せて
隆盛の最後の地を訪れるのもよいのではないでしょうか。

最後まで読んで下さり誠にありがとうございます。

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